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2011年2月 6日 (日)

西新井大師で考えた

今日は長いです。

西新井大師に行って、お護摩というのをやりお札をもらってきた。寒桜(花が小さくて色が濃い)がほぼ満開、安行桜というのも咲き始めていた。

夫は西新井大師にお札をもらいに毎年行っている。別に信心しているわけではなく、年に一回お札をもらいに行くだけなのだが。那須の家を建て始める年に工事の安全を祈願しに行ったのが始まりだから もう17年くらいになるのだなあ。

毎年夫ひとりで行っていたのだが 今年は私も付いて行ってみた。

お護摩の申し込みをしてお金を払ってから本堂に上がる。本堂の畳は床暖房になっている。夫によると何年か前に改装されたのだそうだ。

最初にお坊さんが出てきて「こうやったら合掌して~~で。ここで一緒に南無遍照金剛と言ってください。」などと説明してくれる フムフム。

8人のお坊さんが渡り廊下を通って入り、席に着くと始まりである。

お経を聞くと不信心は不信心なりに何とはなし敬虔な気持ちが起きるものだ。「一切衆生」と繰り返されるのを聞いて そうか、ここはお大師様が開いたお寺だから真言宗か とやっと気付く始末 ダメだね どうも。

あとはひたすら興味にまかせて観察。メインのお経をよむ人は左手でマイクを握って右手で鉦を叩いたり忙しい。他のお坊さんたちの声もスピーカーから聞こえているからピンマイクを付けているのか?全員白い襟巻のようなものをかけているのはピンマイク隠しか?般若心経の時だけ太鼓が入る。リズムがしっかりお経に合っていてクレシェンド デクレシェンドもついている。それって内容にも合っているんだろうか?時々アクセントが入る所は大事な言葉のところなのか?こういうのを合わせる練習ってするんだろうか?それとも毎日5回も6回もお護摩のたびに同じことをやっているからルーティンワークになってしまっているのか?

その他いろいろ考えたので帰りにお茶しに寄ったデニーズでそれについて夫と話した。

「お護摩というのは宗教活動なわけだが やっているお坊さんたちにとってみたら経済活動なのではないか。彼ら自身はどういう意図を持ってやっているのか」

「神様(仏様か?)に届く言葉としてお経というものがあって それを知らない一般人に代わってお坊さんがお経を読んで神様(仏様?)に届けてくれるから その手数料としてお金を払う という感覚でいいのだろうか」

「神様や仏様がいるかどうかは置いといても、お経(やキリスト教のラテン語も含めて)がちゃんと届いているかどうかなんて検証できないし、証明できないことだから真理とは言えないのに毎日お経をよんでいるお坊さんの心理とはいかなるものか」

「檀那寺ではない(檀家を持たない)お寺のあり方として永平寺のような修行道場(+観光)とか薬師寺のような観光寺はわかる。三大師は毎日お護摩で稼いでいるわけだが こういう場合は経済活動の手段としてお護摩をしていると思えるのだがそう考えてはいけないものなのだろうか」

「いったい何人のお坊さんがいるのだろう。1回8人で、裏にもいたから10人として、チーム作ってやっているのかな」

などなど・・・・・信者さん達からしたら不謹慎極まりないことでごめんなさいだけど。

だってさ。お金を払うとお経をあげてくれて量産してあるお札をくれるだけ。で「ありがたいお話」が聞けるわけでもなく宗教的啓蒙活動になってないじゃないか と思ったんだよね。「宗教」として考えたらいけないものなのかもしれない。

でも お坊さんたちがお経をあげ始めた時は身のひきしまる気がしたし、縁もゆかりもない他人の願い事のために祈ってくれてるんだなあ と思ったら素直に「ありがたいことです」とも思えたのだ。ただ そのお経をあげている時のお坊さんたちの頭の中身とかを考えてしまっただけで。。。。。。

夫によると
「気休め。毎年家内安全を願っていても骨折はしたし、家族にケガも病気もあった。でも火事にもならず 車の事故にも遭わず 泥棒にも入られなかったと思えばいいんだ」ということであった。

ちゃんとおやつ用にくず餅と草だんごとおせんべいを買って来たけど それでいいのかも。



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