思い出話

2010年5月13日 (木)

二十四の瞳

「空からナントカ」という番組で小豆島をやっていて「二十四の瞳映画村」というのが出て来た。

問題は 読み方なのである。

幼稚園のころ少年少女文学全集で読んだのだが題名を「にじゅうよんのひとみ」と読んでいた。母親に「にじゅうしでしょ」と言われたがなぜ「にじゅうよん」ではいけないのか意味がわからなかった。「しろくにじゅうしでしょ」と言われたってまだ九九を教わる前だったし。

その時に「四×六=二十四」はおぼえたが「子どもが12人で目玉が2個ずつあるから二十四なのだ」という説明には承服しがたいものがあった。

だって それなら十二×二=二十四なのだから にじゅうよんと読んでもいいのではないか と思わないか 普通?四六二十四は関係なくないかい?

以来 九九を教わった後も九九とは無関係に「二十四の瞳」を見ると口には出さねど自分の中では「にじゅうよんのひとみ」と読んでしまうのだ。

これだけ克明におぼえているってことは ある意味トラウマとも言えるかもしれない。漢字がいっぱいある難しい本をスラスラ読めることには自信を持っていたから もしかしたら人生で最初の挫折体験だったのかもしれない。ああ また思い出してしまったよ。

2008年12月23日 (火)

東京タワー50歳だとか

そうか~ もう50年も経つんだな~。
ニュースで見て思った。

東京タワーに昇った経験は たぶん3回くらい。
息子が行きたがって何年か前に行ったのが最後。
息子は その次の年も夫と一緒に行っているから2回は行っている。

私の実家では大みそかに首都高を何周かするのが恒例だった。変な習慣?紅白もレコード大賞も興味ないから見るTVがない、というのが その理由。

それでカーステレオで第九と新世界をかけながら首都高を周回して東京タワーを堪能するまで見て年が明けてから帰るわけだ。

結婚してからも那須の家を作り始めるまで 毎年夫とふたりで首都高を周回していた。芝公園のあたりで見る東京タワーは圧倒的な質感がある。あれは昇ったら面白くない。見て楽しむものだと思う。

首都高から見る東京タワーが一番好きだ。


2007年7月26日 (木)

メルツェデス

もちろん あのベンツのこと。

幼稚園の時 少女フレンドを読んでいてマンガの中に「メルツェデス」という車の名前が出てきて その響きに魅了された。「なんてロマンチックですてきな名前の車なんだろう」と思ったのだな。

お金持ちにもらわれた少女が実家の親が死にそうになって見舞いに行くのに運転手付きのメルツェデスで行くわけだ。田舎のゴロタ道で車が腹を打ってしまい「お嬢様 これ以上進めません」と運転手が言い、お嬢様はそこから歩いて行くのだが その後姿を見ながら運転手が「全く見栄をはってメルツェデスなんて車高の低い車で来るからこういうことになるんだ」と言うのだった。

それで『メルツェデスというのは高級な車で車高が低くてかっこいい車なんだ』というのが刷り込まれてしまったのだな。

感動のあまり、お店の若い衆に「あたし大人になったらメルツェデスって車に乗ることに決めたわ!」と言ったらみんなで「メルツェデスってなんだ?」「ベンツのことだよ」なんてワイワイ言うものだから「ベンツなんてかっこ悪い名前じゃないの!メルツェデスよ!」とがんばったら「はいはい どうぞ乗ってください」と言われてブンむくれたのだった。父は「メルツェデスというのは車を作った人の娘の名前なんだよ。女の子の名前の車だから女の子が乗るのには似合ってるね」と言ってくれた。

大人になってみてメルツェデスは高級で高価ではあるが若い子に似合うような車高の低いかっこいい車というわけではなく、それどころかかなりのオヤジ車だということはわかった。が、相変わらず乗りたい車には変わりなく、オヤジ車に乗るのが似つかわしいような年になってしまったが乗れないことにも変わりはないのだった。いつになったら買えるんだ メルツェデス。

ワールドビジネスサテライトを見ていてスーパーカーやトミカのことをやっていたので思い出してしまった。ちなみに今時の子供たちが大人になったら乗りたい車ってエルグランドやらのファミリーカーなのだそうだ。夢がないなあ。

2007年7月24日 (火)

浅草 新世界 花やしき

「ガイアの夜明け」で花やしきのローラーコースターのことをやっていて『新世界』のことを思い出した。

実は浅草で育ちながら花やしきには行ったことがないのだ。その代わり新世界には年中父に連れられて歩いて行っていた。思いついて検索してみたらウィキペディアにちゃんと出ていた。五重塔再建の資金作りのために瓢箪池を埋め立てて売り出された土地に東急グループの楽天地が立てた室内型遊戯施設だったらしい。今は場外馬券売り場になっているそうだ。

なぜ花やしきには連れて行ってもらえず新世界だったかというと たぶんお店をやっていたからなのだな。昼間行かないと遊べない花やしきには連れて行けないと。その代わり夜遅くまでやっていた新世界にはお店の閉店近くになれば、あとはお店を若い衆にまかせて連れて行けたということなんだろうと思う。思い出はいつも夜だもん。それも確か8歳くらいの時に閉店してしまったのだ。

更に検索で東京下町貼雑帳というブログをめっけ。コメントに内部の案内図の写真があった。「へえ~」だった。宴会場や大食堂やバイキングレストランや温泉大浴場からプラネタリウム、中華飯店、ローラースケート場、キャバレーまであの中にあったのだね~。私が知っているのは1階のお土産屋とその端にあったおにぎり屋と3階のアメリカンゲームセンターだけ。思えば『型抜きしたおにぎり』というものを生まれて初めて食べたのは あのおにぎり屋でだった。家でも型抜きおにぎりを食べたくて母にねだってカッパ橋のお店で木のおにぎり型を買ってもらった。

シューティングゲームやミニボウリング(実際に小さい玉を投げる)やドライヴィングゲームなどなど好きなだけやりまくって楽しかった。というのもすいていたからなのだな。最後ごろなど電気が半分も点いていなくてお客さんは誰もいなくて薄暗かった。閉店はおにぎり屋さんの大将が「ここもあと1週間で閉まるんですよ」と父と話していたのを聞いたことで知った。子供心に「それでこんなに人がいなくて暗いのか」と思ったことをおぼえている。実際に閉館したのはいつだったのだろう。

アメリカンゲームセンターは今のゲーセンのハシリで、もっと大規模なものだったと思う。子供だったせいで広く感じたのかな?屋上に五重塔があって電飾でピカピカしていて非日常空間に入っていく感じが好きだった。

昭和30年代の初めにあんな大規模な室内型レジャーセンター(だよね)があったことに改めて驚いた。調べてみるもんだね。